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Style act.6 - 思い出の中の拠り所

福岡県久留米市・六ツ門商店街。
週一回、雑居ビルの中の1室にみんな集まって話し合いをしたあの場所は、あれから一度も使われていないみたいで、入り口は堅く閉じられていた。その雑居ビルの斜め前、話し合いの成果が発揮される場所があった。
今はその場所の影さえもない。
「あれからもう4年か……」

FM KURUME

「ラジオ制作、一緒にやらない?」
そう言われたのは、99年の2月頃。当時私は高校生だった。
小学生の頃からの夢は、ラジオのアナウンサー。理由はいろいろあるが、恥ずかしくて言えない(^^;
そう簡単に関わることが出来ないメディアの世界だし、何より夢の達成につながるから、私はそのお誘いをありがたく受けた。

私が誘いを受けたのは、メンバーのほとんどが久留米市の有志によるミニFM局「FM KURUME」(ちなみに私は久留米市在住ではない)。そこで放送されていた「カレッジスクランブル」という番組で、レギュラーメンバーは当時久留米大学の学生で構成されていた。毎回アシスタント的な位置づけで、いろんな学校の学生が入っていた。このため審査も何もなくすんなり入れた。この時はまさか、この後固定になるとは思いもよらなかったのだが…(^^;

有志団体=ボランティアということで、周りのイメージは「素人軍団のラジオ局」という見方が一般的だったらしいのだが…、とてもそうは思えなかった。パーソナリティーの個々のレベルはものすごく高く、実際、今現在もローカル局などプロの現場で活躍している人も数多くいるほどだ。

私が入ったときのFM KURUMEは「リボンスクエア」という施設の一角にあるサテライトスタジオで活動をしていたが、そのちょっと前まで公園にワゴン車と機材で、半径数百メートル圏内の放送を地道にしてたそうだ。雨が降ったらずぶ濡れになったとか。サテライトスタジオに移動してからも確かに放送エリアは狭かったのだが…商店街の一角のスタジオは町並みにとけ込んで、いい感じだった。道行く人が手を振ってくれたり、スタジオの表に出してある落書き帳にたくさんのメッセージを頂いたり…、ミニFMだからこそ、人の温かさとか…身近に感じることが出来たんだろうな、きっと。

閉鎖

私がFM KURUMEに入って1ヶ月後の4月、FM KURUMEの閉鎖の話が飛び込んできた。そのときはよく理由がわからなかったのだが、調べてみると、どうやらメンバーの不祥事が元で、創始者が責任を取って辞任するということが理由としては濃厚だった。
打ち合わせの時にディレクターが、「来週で終わりかもしれない」と言ったときのみんなの顔は今でも忘れられない。

その時は結局閉鎖せずに済んだ。その後、FM KURUMEは元より、聴いてる人、本拠地の六ツ門商店街、とにかく楽しく!をモットーに、代表不在と言う状況でもみんな頑張って番組を作り上げていった。レギュラーメンバー以外が頻繁に入れ替わっていた「カレッジスクランブル」も、私と私が連れてきた2人の高校生、パーソナリティーとディレクターあわせて大体9人で固定となってきたのも、この時期だった。

再び閉鎖に関する話を聞いたのは、6月20日の放送打ち合わせの最中のこと。今度の理由ははっきりしていた。久留米にあるもう一つのFM局…県内二番目のコミュニティーFMとして開局した、「久留米シティーFM」(Dreams FM)との合併が、その理由だった。
合併と言っても名ばかりに近いもので、歴史もリスナー獲得数も多かったとはいえ、有志一同のFM KURUMEは企業に勝てるはずもなく、一方的に吸収される形となった。スタッフも一部はシティーFMに残留することが出来たが、そのほかは解散を余儀なくされた。

最後の放送となった7月4日。前日から32時間ぶっ通しの放送はミニFMとしては初の試みで、最後となった。各番組では開局から4年間の思い出が語られ、「カレッジスクランブル」でも、誰がいつメンバーになったとかの話題で盛り上がり、そして午後8時、すべての放送が終了した。

明かりが消えたリボンスクエア。
誰もその場を離れられなくて、スタジオの外で気が済むまで語り合った。
この場にいるみんながそろうことは、もう多分ないからと。
 
「楽しかった。」
 
みんながやっと絞り出した言葉は、その一言だった。

サテライトスタジオは、シティーFMのスタジオとなった。FM KURUMEと違って、パーソナリティーは訓練を受けた人たちで構成されていた(はず)ので…、リスナーを変わらず楽しませてくれるだろうと、いろいろと不満はあったが皆口に出さず、期待をかけようということで意見は一致し、そして別れた。

その後

それからの私は抜け殻だった。ただ単に毎週日曜、夕方からの用事が無くなっただけなのに、やる気が出ずいつも上の空。
リボンスクエアにも行けなくなった。シティーFMが放送を行っているはずだったが、なぜか行き辛かった。

それだけじゃなく、シティーFMの評判は、予想に反してひどいモノだった。六ツ門商店街が寂れていく中で、FM KURUMEの存在はかなり重要なものだったらしく、シティーFMに変わってからというもの、スタジオ見学に訪れる人(=商店街のお客さん)も激減、「FM KURUMEがいてくれていた時の方がよかった」と、私たちを煙たがってたお店の人まで言い出す始末。正直絶望感を感じずにはいられなかった。

リボンスクエアの焼失

それから約1年後。リボンスクエアが六ツ門商店街の火災で焼失した。
私も、他のメンバーも、「FM KURUME」の思い出を笑って話せるようになった頃の出来事だった。

火災の翌日、放送終了後に語り合ったメンバーが、あのときと同じように、全焼したリボンスクエア前に集まった。
約一年ぶりの再会。
まさかこんな形で再会するとは思わなかった。

リボンスクエアのサテライトスタジオはシティーFMのスタジオとなっていても、FM KURUMEが存在した証を唯一残す場所であることにかわりはなかった。
居場所を奪われたスタッフにとっては唯一活動したという記憶を形にした場所だった。
何処よりも失いたくない場所だった。
みんな声にならない声で呟き、静かに泣いた。

2003年7月

そして、それから随分経って、私はまた同じ場所に立っていた。たまたま久留米に来る用事があったので、ついでに六ツ門商店街にも足を伸ばしてみたのだが…
商店街の寂れ具合はひどくなっていた。4年前とは比べものにならないくらいだ。
そしてリボンスクエア跡地は…なんかよくわからない複合型商業施設(?)みたいなものになっていた。リボンスクエア再建計画が持ち上がってたけど…流れたんだな、きっと。

商店街が寂れていくのに拍車をかけたことが、FM KURUMEの撤退のせいなのかはわからない。撤退しなくても変わらなかったかもしれない。駅前通り商店街とはいえ、久留米駅からここは遠すぎる。郊外に大型商業施設の建設も決定している。どうしようも出来ない問題だったのかもしれない。

盛り上げていく立場から、ただ見てるしか出来ない立場に成り下がって、こんなにも街の様子が寂しく見えるとは思わなかった。
 
何も出来ない腹ただしさ。
 
4年経って、残ったものがこれだとはな…。

自分たちは本当にこの街に貢献できたのか?
自信が持てなくなった。当時は楽しければそれでいいやとしか思ってなかったのに。
考えれば考えるほど悔しさだけが込み上げてきて、今更そんなことを考えてもどうしようもないことわかってたはずなのに、それでもなお、深く考え込んでしまった。

そんな中ネットを漂っていると、FM KURUMEの思い出を語り、その足跡を記録し公開していたHPが何件もあることを知った。FM KURUMEはなんだか伝説みたいに言われてた。
正直びっくりした。それよりもびっくりしたのは…FM KURUMEの復活を望む人がかなり多かったことだった。
FM KURUMEの放送エリアは商店街周辺に限定されていて、閉鎖になる数ヶ月前にエリアをちょっと拡大して、市内全域まで行かなかったが大体カバーできるか?くらいのエリアでしか放送されてなかった。この反響の大きさは何だろう…。
百年公園時代からFM KURUMEを見守っているファンの方、六ツ門商店街のスタジオ前でゲストブックに記帳した人、商店街から聞こえるパーソナリティの声に耳を傾けた人、本当に多くの人がFM KURUMEに対してのコメントをコミュニティにあげていた。コメントを見るだけでもすごく愛されていたことがわかる。
 
「久留米の街を楽しくする」それを柱とするFM KURUMEは、目的を達成することは出来ていたらしい。やってるときは実感がなかったけど…、4年後の今、こうやって当時の話を目にするのも懐かしいし、反応が今でもあるのは嬉しい。
 
FM KURUMEの再建計画もあがっていた。けど、どうなったかは私も知らない。もしも復活するのなら…スタジオにまた訪れたいとは思う。
当時のメンバーは散り散りになって、あのときのような感覚は味わえないかも知れないけど、それでも「FM KURUME」の名は私たちを繋ぐ架け橋のようなもの。思い出話に花を咲かせながら、新たな動きを祝福したいものだ。

私信。
と言うわけで、久しぶりに集まりませんか?(笑

(2003/09/06 nadiel)

 

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